迫り来るその時-1-1     水道公論2014年12月号
真鶴の老人ホームで 2024年8月
 
「直樹、真鶴まで良く来てくれたね。可愛くなって。うれしくて、もっと長生きしそう。だけど直樹が、私の小さかった頃と同じ食糧難に遭いそうなんて、知りたくなかった。年金は増えないのに、物価だけどんどん上がって。こんなことならもっと早く死ねば良かったわ。食べ物がなくなるのだから役に立たない高齢者は早くいなくなった方がいいわ。
睦夫の家が津波で流されてしまって、可哀想。ローンもいっぱい残っているのに」洋子が押す車椅子に乗った春子がつぶやく。高齢で耳の聞こえが悪くなり、パソコンもテレビも見にくくなっていた。
「おばあさん、来年には元に戻りそうだから心配ないわよ。直樹がもっと大きくなるのを楽しみにしててよ。」と祖母をなだめる孫の洋子であったが、心の中では心配であった。「今日は睦夫兄さんの家のこともあって来たの。横浜のおばあさんの家を借りていた人が家を新築して出て行くので、次の人を探していたのだけど、避難所生活ではどうしようもないから、睦夫兄さん一家に入ってもらうことにしたの。兄さんは離れられないけど、姉さんと健太だけ来れば、なんとかなるし。家財が殆どないので、家で余っている布団を送って、明日は掃除がてら日用品を持って行く予定なの。それで当面おばあさんのところに家賃が入らないけど我慢して」
 おばあさんの膝の上にちょこんと座っているひ孫の直樹はおとなしくしている。母親が共稼ぎで、2世帯住宅に住んでいた祖母に母親代わりで育てられた洋子は母親のような祖母のところに定期的に訪問している。
 神津島の大爆発によって全世界を覆ってしまった塵がいつ晴れるのか、様々な予測がされた。地球の歴史では珍しいことではないが科学が発達したのは非常に短い時代で、経験のないことであり、いつかは元通りになることは分かっていたが、確信を持った予測は難しかった。
 今年の世界的な生産量は小麦でおおむね例年の半分、米で6割に落ち込むと予想されていた。思わぬ事から大量の備蓄米を抱えていた政府が早めにお米の配給制を取ることを表明したので、大昔のような騒動は起こっていないが、備蓄米は1年分しかなく、これが尽きたあとはどうなるのだろう。 東海道線は東京から静岡まで通じている状態で、真鶴まで電車で来れるのは幸運であった。その先は不通になっていた。
 
 「恒夫一家が、先に行ってしまって、この話も聞きたくなかったわ。あの世で会えるのはうれしいけれどね。」
 廊下の窓から海を見ながら、春子がいう。車椅子生活になってしまった春子にとって5階の廊下突き当たりの窓から海を眺めるのが数少ない楽しみの一つであった。春子の孫の恒夫一家は2年前に、生まれたばかりの赤ちゃんが高熱を出し、病院へ急いでいく途中の交通事故で一家3人とも亡くなっていた。
老人ホームの前のオーナーはよく考える人で、伊豆半島が見える眺めのいい廊下突き当たりの窓高を低くして車椅子でも景色を楽しめるような工夫していて、退屈で何事もままならない車椅子生活にとって非常にありがたいものであった。居室で外のベランダに車椅子で出るのは難しく、無理して出てもベランダの屛で視界はあまりいいとはいえない。
 関連会社が投資詐欺にあって、このホームを手放すことになったが、引き継いだのは普通の介護会社なので、サービスはいまいちであった。
 小高いところにある老人ホームの窓の下には松林があり、その向こうには伊豆半島と太平洋が広がっている。この約百キロ先は神津島であった。只どんよりとした空では、海のきれいさは伝わって来ない。