迫り来るその時-1-3   水道公論2014年12月号
●首相官邸で 2024年7月
 早田学総理大臣が緊急対策閣僚会議のあと田野真理復興担当相を呼び止めて緊急の課題について相談した。
 今回の大爆発による被災状況はまだはっきりしていなかった。津波被害が一番深刻で、死者は多くなかったものの家屋損失は膨大となり、避難者の仮設住宅確保が大きな課題であったが、人口稠密地域であり、県境を越えるほど範囲を広げて確保するしかなさそうであった。
 「東日本大震災から13年もたってまた同じような大災害を引き起こしている。津波という国際語を生み出した今や豊かな国がこのようなことになって、まさに醜態とも言える。何とかしないといけないね。」
復興担当相が答える「津波に耐えられる国土に早期に変えていって、20年後に想定される南海トラフ地震津波でこのようなことが起こらないようにしないと。厳しいけれど、津波被災危険地域の建築制限の法案を強化しましょう。津波で流されるような建物の禁止と、できるだけ早く住宅を建てることと避難が容易で被害が少ない街づくりですね。」 
 総理大臣は若い頃事務機器事業の仕事で欧州に10年赴任し、使用者のもとに通って作業を楽にする機器やサービスの改良を行い成果を上げていた。また、大きくない権限を離さなくて、事情を調べに来ても意思決定を示さないで帰ってしまう本社幹部への対応でいつも苦労していた。
 復興相は国連機関職員としてスイスで6年間働いていた。
 二人とも欧州の石造りの街が洪水に見舞われても割に平気であった状況を垣間見ていて、軽量の低層建築の問題点を理解していた。欧州の洪水はゆったりしていることもあるが、石造りの建物は浸水箇所の内装被災と生活物資が使えなくなる程度で、建物の上の部分はそのまま残り、地域全体で一切のものが失われるとということはない。土石流にも耐えられる。地形が急で、社会経済活動に重要な平地が少ない日本の大都市では、高台移転などの方策が現実的でないことも理解していた。二人とも大災害対策研究の勉強会に参加していて、これまでの津波災害復旧事業で地域の社会経済に最も必要な住宅と産業関連施設の復興が非常に遅い状況に危機感を抱いていた。
「今の津波対策法では、危険地域を指定して、建築制限をすることができるようになっていますが、現在の体制では進んでいません。津波に耐えられない建物の建築禁止と避難場所となる高層建物の建設促進を条文に入れましょう。広大な被災予定区域で個人の財産を制限することになり、反対も大きいでしょうが。」  
 「それで行こう。昔英国に自分の信念を突き通した女性首相がいて鉄の女といわれたが、同じ気持ちでがんばって下さい。東日本大震災の際、津波対策の基本は被災地しか見ていなかったけど、ここは大津波が来るのは数百年後、もっとも真剣に対策をはじめなければいけなかった東南海地震津波対策へ強く目を向けているべきだった。
 東京の都市防災に見られるように数百年も続いた日本の悪しき慣行をここで断ち切って本当に国民の安全を考えた政治行政にしないとね。東日本大震災の時にこれをやっておいたら、地域社会復興の基本となる、住宅と産業施設の建設がすぐできて地域の回復が早くできたのに残念だ。住まいの確保は地域社会の活動に不可欠のもの。住宅整備や街つくりに何年もかかっていると、地域は衰退し、人は皆いなくなってしまう。広範囲にわたる被害で12万戸の家が失われ、1万8千人という多くの人がなくなって、避難者が40万人にものぼった大災害だったので思い切ったことができたのに。
 南海トラフ地震が起こった時に、被害を出来るだけ減らすため、やれるのは今しかない。」
 神津島大噴火による津波被害は静岡県と愛知県に集中していた。津波による家屋損失は現場が混乱していて数字が上がってきていなかったが家屋数が1万~2.5万戸、避難者は約4万人であった。東日本大震災と比べてはるかに事態は良かったが、大津波の度にこのような事態になることについてなんとかしなければならないという機運は高まっていた。
「こんなに重要な問題なのだから組織的にしっかりやらなければいけないのだけど、儀礼的な行事にあまりにも時間を取られてしまって、やらなければならない仕事に向ける時間が少なくて。他の大臣もみなそうだろうけど。」と付け加えた。
 大臣がころころ変わっていた昔のようなことはなくなって、各大臣ともに政策起案や実施に取り組める環境にはなっていたが相変わらず儀礼的な仕事が多かった。
 17世紀初頭、世界の二大都市であった江戸とロンドンが対照的な存在であった。ロンドンの大火は1666年9月1日に発生して3万戸も焼失したが、死者は数名であった。しかしこの火事を契機に木造建築が禁止され、以後大火事はなくなり、空襲にも耐えた。
 一方江戸では徳川幕府が始まって54年後の1657年1月に明暦の大火に見舞われた。振り袖火事ともよばれ、密集市街地は全焼、市街地の大半が焼失し、江戸城天守閣も焼けてしまい、死者が3~10万人とされる大火であった。確実な対策が打たれないまま、街は復興し、以来ほぼ12年に一回の割で大火が起きていた。地震に耐える石造建築は難しかったのかもしれないが、しっかりとした防火帯などは可能であったと思われる。明治維新のあとも木造建築は多く、1923年の関東大震災では東京府だけで6.6万人の人が焼死していた。また、燃えやすい木造家屋を狙った焼夷弾を使った昭和20年の東京大空襲では8.4万人の人が亡くなった。
 江戸時代、何度も大火を出し、そのたびに多数の死者を出し、広い地域が消失したのに、地震国であるので石づくりの家は難しかったであろうが、広小路をつくったくらいで広い防火帯、防火壁など根本的な大火災対策はなにもされなかった。明治維新のあと、関東大震災、東京大空襲で莫大な人命と財産が失われたのに、戦後白髭地区のような防火壁はつくられたものの、基本的な方策がとられてこないまま、コンクリート建築費が高くなくなっているのに大都市でも低層木造住宅が増え続けた。
 このような災害をただ悲しみ、耐え忍ぶだけで、抜本的な規制ができない国民性になっているような社会を本当に変えることができるかどうか不安があった。また東日本大震災の教訓から避難システムが機能していたために、津波による死者が少なかったことがどの程度切迫感をもってもらえるかの事もあった。しかし、数万戸にのぼる家屋損壊は厳しい規制をやむを得ないとする方向性をもっていた。
 首相はその後官邸で東日本大震災のことを思い浮かべていた。地震がおさまった直後は死者が殆どいなかったこと。非常に豊かな、安全を過大過ぎるほど重視する社会で、数十分という時間的猶予があったのに2万人近い人が津波に飲まれてしまったこと。子供の頃一度おぼれたことがあって、水難の苦しさはよく分かっていた。震災前に東東北地方での大津波の可能性が公的機関の地質調査で報告されていたこと。悔やまれることばかりであった。
 かって訪ねた地震の多いアドリア海の豊かでないクロアチアなどの海岸都市がもし10m級の津波に襲われたとしても、中層の石造りの建物が多いため、被害は桁違いに少ないだろうということ。
 人口が集中して市街地が広大な大都市地域では、高台は近くに殆どないこと。
 東日本大震災で多くの人が海岸沿いのホテルなど普通の大型の建物に避難して助かったこと。
 水産業が主産業の地域では、結局海沿いの低地が最も働きやすく,生活しやすい場所であり、津波はすぐには来ないので短時間に避難できれば人命は失われないこと。多額のお金をかけて津波防波堤や避難タワーをつくっても、普段はただあるだけの存在だが、中高層建物は、住居なり,事務所なり、日頃の仕事や生活に役立つものであること。
 東日本大震災の直後、思い切った対策を打っていれば相当の改善があっただろうこと。東日本大震災の復興をどうするかの検討委員会では、人の住む場所として、高台移転などを示唆していた。この時点で津波対策を一番考えなければいけないのは、将来確実視されている南海トラフ地震津波襲来予想地域であった。経済産業の集中する大都市が多く、大規模な被害が想定され、0m地帯が広大で、高台移転など不可能で、津波に耐える街造りを早急にはじめなければいけなかった。
 委員会報告は当時一番重要な南海トラフ地震津波対策を考えたものとは言えなかった。。