迫り来るその時-2-1   水道公論2015年5月号
●田野復興担当相
 若くして閣僚に抜擢された田野復興相は任命時点から、現場に詳しい作業部隊にできるだけ飛び込んで生の現実とか国政の問題点などを一所懸命に勉強していた。難しい福島原発事故担当でなかったことが、一般災害対応に集中できる要因となった。
 これまでいろいろな問題が起きた時、新しい組織がつくられたが、作業部隊はあまり増強されず、船頭が増えたようなもので、報告資料作成など余計な作業が増えるだけという作業部隊の不満も理解していた。
 実務現場から自主性や創意工夫を奪ってしまう、過度のホウレンソウ(「報告」「連絡」「相談」)問題も理解していた。メディアが担当責任者で充分なのに、わざわざトップを呼び出して細かいことを聞いて、結局当たり障りのない回答で満足するという風潮が、なんでもホウレンソウにせざるを得なくなるという大きな時間損失を招いていた。
 役所に帰る車の中で担当相はいろいろ思い悩んでいた。本来当たり前と思える政策であるが公権力が強かった江戸時代や戦前でもやったことがなくて、タブーになっているようなことをやろうとしている。あれだけ大きな不幸を生んだ東日本大震災の時しなかったことを何故いまやろうとするのか。
 災害に関して行政や危機管理のあり方の難しさを最も深刻に浮き彫りにしたのは石巻市大川小学校の悲劇であった。北上川河口から4kmのところにあって、津波により児童108人のうち74人、先生など13人のうち10人が亡くなっていた。学校のすぐ裏に急な丘があり、そこを無理して登れば皆助かった可能性があったことが後悔を何倍も激しくしていた。
 時間の幅は分単位と数十年単位と大きなずれがあるものの、自分の立場がそのときの責任者のように感じていた。
大川小学校は、当時の津波浸水予想図では浸水予想区域から離れていて、避難場所にもなっていた。学校のある釜谷地区はそれまで津波が到達した記録がなく、大川小学校がいざという時の避難所と認識されていた。
 しかし実際の津波は2階建ての同校校舎の屋根まで乗り越え、裏山のふもとから約10メートルも駆け上がっていた。
地震の後児童は校庭で待機し、先生方がどうするか長いこと相談していた。先生や児童のなかには裏山に逃げようという切羽詰まった声もあった。
 結局約200メートル西側にあって周囲の堤防より小高い新北上大橋のたもとを目指すことになって、移動をはじめたが、突然堤防を越えた津波が学童の列を襲ってしまった。 災害の程度は確率によるものであり、何が起こるかは結局分からないものである。
 今回の噴火は日本で千年に一度という大きなものであったが実際に起こってしまった。7千年前に九州を壊滅させた喜界カルデラ爆発や数万年前に九州の半分を溶岩でおおってしまった阿蘇山大噴火のような、これこそ未曾有という言葉があてはまる大災害だって明日起こるかもしれない。このような災害の性格から、できる範囲で想定を超えた場合でもある程度効果的な対策を打つことが大切ではないか。南三陸町の防災庁舎が3階でなく4階であったなら多数の人の命が失われずにすんでいただろうこともこのことを示していて、災害対策施設のありかたについて重大な教訓を与えていた。ハザードマップや避難施設計画は来たるべく事態を予測したものであるが、予測を上回る場合もありうる。堤防は想定より大きな災害となった場合、普通崩れてしまい、なかったと同じ悲惨な状態に引き戻してしまう性格のものであるが、ダムはこの場合、自分の持ち分以上の働きはないが、ないと同じ状態に引き戻すことはない。このように防災施設の性格を考えて行かなければならない。今回神津爆発の津波でも、想定される最大程度の津波高を考えて安全なはずの避難建物の3階に避難した多くの人が津波に飲まれていた。
 詳細な避難マニュアルが本当に必要なのかという大きな疑問も感じていた。どのような形で襲ってくるか分からない災害には結局個人の判断に委ねるしかないのでは。意に反するマニュアル通りに行動させられて不幸な目にあったら死んでも死にきれない。
 避難施設は想定より大きな津波がきても相当の安全度を持ってできるだけ耐えられるようにすることが望ましいが、避難だけの建物は高くすると建設費がどんどん上がってしまうので、想定を相当上回る高さを確保することは難しい。高層建物なら想定以上の津波でも相当耐えられる。
 大川小学校の先生の立場であったら、急斜面で足場が悪い裏山に逃げる方法は生徒の怪我などが心配され、学校が避難地指定されているくらいなので、津波の来る可能性は殆どないという常識のもと、結果的に何もなかった時に,児童が怪我していたらどう責任をとらされるかのことを考えると、裏山への避難は難しい選択であったこと。そのとき自分が責任者であったら校舎の2階に避難させていただろう。しかし校舎の屋根まで襲った津波で結局不幸な結末になってしまう。裏山に行きたいという希望者に先生をつけて行かしておけばその分犠牲者は減っていたのだろうが。
 過去の奥尻島の教訓をまともに考えなかったこの国が東日本大震災でもっと手ひどい痛みを受けてしまい、南海トラフ地震津波が近々に想定されるのに特に変わったと言えない状況であった。
 死んだ子の年を数えるという寂しいことわざを思い浮かべていた。思案したところでどうにもならない過去のことを後悔することであるが、幼子が失われた状況によって、こみあげる思いが異なるだろう。不治の病気など、最善の手を尽くしても助からなかった場合は運命とあきらめ、今だったらどんなことをしているだろうかなど可愛い、なつかしい思いが強いだろう。しかし、子供がちょっとしたことで助かっていた場合は、子供のことを思い出す度に、強い後悔の念にかられ、親は一生悔やみ続けるだろう。自分がこれまでこういう経験をしなくて幸いであったし、今後こういう思いをする人ができるだけいないように社会をつくっていくことが政治家のしなければならないことと強く思った。
 これまで大きな地震に耐えてきた、安全に設計された超高層ビルの下で、もし直下型地震が起きて、断層が地上にまで来てしまったらどうなるのだろう。通常は堆積層というクッションががあるので来ることはないだろうが。通常は安全性が非常に高い地下鉄トンネルもどうなるのだろう。
 どんなことになるのかわからない直下型地震に比べ、津波は少し離れた海溝型地震によるもので、建物の損壊は少なく、また津波が来るまで時間的猶予があって、できるだけ高いところに避難したらいいので、はるかに対処しやすい。0m地帯でもちょっと高いところの家は、被害はない。そのはずなのに津波襲来の度に大きな被害を受けている。
 このままの行政を続けたら、20年後に想定される南海トラフ地震津波が少し大きかったら大都市圏を抱えているので、人命の損失は以前より少なくなるだろうが、それこそとてつもない損失が想定され、今回の制度は万難を排してやるべきものであった。痛みは伴うにせよ、やるべき事はやらなければいけない。