迫り来るその時-2-4   水道公論2015年5月号
●避難所で  2024年8月
 浜松市の自動車関連機械工場に勤務していた井口睦夫一家は、建てたばかりの住宅を津波に流され、とりあえず避難所に入っていた。家族が全員無事だったのが何よりだった。
 3歳の健太を抱えての避難所生活は苦難の連続であった。電気がすぐ通じ、水道も数日で使えるようになったのは幸いであったが、体育館の中は夏の盛りではじめの数日は冷房が動かなくて蒸し風呂状態で、やっと冷房が動いても利きが悪かったが、はじめよりはずっとましであった。凍える寒さの中で電気も水道もなかった東日本大震災津波被害者の悲惨さに比べればはるかに良かった。しかし小さい子を抱えての避難所生活は地獄に近かった。
 井口の妻弘子が嘆く。「お向かいの沢井さんまだ見つからないって。」「これからお金が沢山必要になるのに、ローンは毎月払わなければいけないし。」弘子は津波が来た時たまたま駅前に買い物に来ていて、ビルの上階に避難できた。家財は全て流され、携帯電話が唯一の頼れる存在になっていた。しかし、一家全員が無事であったのがなによりのことだった。たまたま弘子の小さい頃からのお気に入りだった人形だけが戻ってきていた。睦夫が被災直後、自宅近くの電柱に引っかかっていたのを見つけた。
  妹の洋子から、おばあさんの横浜の家を賃貸している人が自宅を新築して丁度でるところで家が空くのでそこに入ったらという連絡が来ていた。「健太を連れてしばらくそこで生活するのがいいよ」
「あなたは大丈夫なの?」
「会社があるからここでがんばるよ。避難所生活も自分一人ならなんとかなる。工場でも泊まれるし。おばあさんの家は新横浜駅にも近いし、新幹線も浜松までは来ているので少し時間が出来たら、時々横浜にも行けるし」
 お向かいに住んでいた老夫婦の沢井家は、二人とも耳が遠く、津波の避難指示が伝わらなかったらしかった。あいにくそのとき弘子は健太を連れて駅前に買い物に行っていたので知らせることができなかった。
 全国的に空き家は非常に多く、空き家情報ネットは整備され、どこにどういう家が借りられるかは容易に調べられたが、家族の生活が保持できる、交通がある程度便利なところは限られていた。
 大災害の際に公共交通機関が動いていることは、一時的にもいい居住環境のある場所に避難することができるなど大切なことで、とりあえず住める家が確保できた事は非常に幸運だった。睦夫は低地にあって被災してしまった工場の復旧にかかりきりで、とても浜松を離れる状態になかった。津波で全く破壊された家の整理のこともあった。
 「いつ落ち着くか分からないけど、その後がまた心配ね。借りたばかりのローンはいっぱい残ってるし。」
 「保険で少しは返ってくるけどね。ニュースで、津波被災地はもう戸建て木造住宅は建てられなくなって、復興対策として、緊急対策本部がすぐに津波避難ビルになる高層住宅を建てると言ってた。復興大臣が言い出したことで政府内でどうなるか。ともかく住宅の整備だけは急いでもらわないとね。」
 「お金はどうなるの。」
 「相当の政府補助をする予定らしいけどまだよくわからない」
 数日後弘子と健太は横浜に移った。工場の一角に宿泊できるようになり、とりあえず 睦夫は十数人の同僚とともにそこで寝泊まりするようになった。弘子の実家は弘子が大学に入った年に父親が浜松から東京勤務になり、引っ越ししていたので、横浜で寂しい思いをするというようなことがなく、いざというときの家族や親戚、友人の大事さはありがたいものである。
 昔の日本家屋なら、広いので親戚を泊めることができたが、地価の高騰により、大都市に戦後に建った家はどこも狭く、よその人間を長期に泊められるような余裕はあまりなかった。
とりあえずの問題は片付いたが、今後どうなるか不安が募るばかりであった。建ててまもない家のローンは少ない方であったがそれでも18百万円あり、それを返していかなければならない。別な家を見つけても買うにせよ借りるにせよお金のかかる話で、同じ悩みを抱える人々は大勢であった。家があった198m2(60坪)の土地を誰か買ってくれたら、ローンがその分減っていいのだがそのあてがどうなるのか。
津波は皮肉な社会をつくりだす。高校まで浜松で育った弘子の同じ高校クラスで被災したのは2人だけだった。かたや従前通りに近い生活を維持でき、かたや全てのものをなくしてしまい悲惨な生活を送らなければいけなくなる。物質的に豊かな社会であるので、家財は買ったり、被災しなかった家々からもらえばいいのであるが、住む家がないとどうしようもない。家という空間の大事さはこういう時でないと分からない。
 被災家屋の比率が地域全体からみると大きくないことは、震災直後の緊急避難場所や生活物資の確保において非常に恵まれたものであった。地域全体で被災者の一時的な受け入れが相当可能で、食料をはじめ生活物資も最低のものはまかなわれるし、どうしても不便なところに設置され、コストもかかる仮設住宅は多く建設しなくて済む。しかし一方で、恒久的に住め、まともな生活や経済活動を再開できる建物の早期整備が大きな課題となる。復興に何年もかけてはいられない。