ローマ皇帝ディオクレティアヌス(西暦245〜313)は、スプリットの近くのサロナで、解放奴隷の子供として生誕。成長後、書記官の職につき、その後モエシェア(今のセルビア周辺)の総督、執政官などを歴任しローマ帝国を警備する親衛隊長に抜擢された。その後ペルシャ戦争での功績により、イギリスからアフリカ、エジプトにいたるまでの広大なローマ帝国の皇帝に。当時ローマ帝国は弱体化していて他民族の攻撃や侵入に悩まされていた。帝は一人の皇帝が統治するのは難しいと考え、帝国を4分割し正副4人の皇帝が分割統治することとし、自分は最も問題の多かった、東部の統治にあたった。 旅名人ブックス「クロアチア」から |
ディオクレティアヌス宮殿の想像図
博物館で。南門に船を付けてそこから宮殿に入るように。
ディオクレティアヌス帝は59才で突然引退宣言し、かねてから用意しておいたスプリットの宮殿に引退。ここで晩年の10年を過ごして天寿を全う。宮殿は、海辺に皇帝の住居、中にディオクレティアヌス廟とユピテル神殿、奥が兵舎と使用人の住居や作業所に。廟はあとになって、かって皇帝が弾圧したキリスト教の大聖堂に改造されている。 |