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1,はじめに パリの西方、フランス中部のロワールを流れるロワール川の流域一帯は小さな丘、小川、、見え隠れする古城など美しい景観を提供している。中心となるトゥールはパリ・モンパルナス駅からTGVで約70分。 シェール川はシュノンソーあたりでは西に流れ、20km下流のトゥールで西南西に流れるロワール川に合流する。ロワール川はフランス南東部、地中海近く、150kmくらいの所から北に流れ、パリ南150kmくらいから西に向きを変え、大西洋に注ぐ。延長1012kmはフランス最長である。
渓谷にはいくつものお城が散らばっていて、有名なもので11箇所あり、バスツアーが便利で、パリ出発やトゥール発のミニバスツアーなどがある。2011年にパリ出発の日本語ツアーに参加して、訪問したのは3カ所であった。
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デイアーヌはローヌ・アルプス地方の一領主の娘で15才で結婚し、2人の娘の母親となった。夫の死後、喪服で過ごすようになる。国王フランソワ1世王妃の侍女となり、アンリ2世が人質とされていたスペインから帰還した12歳の時に家庭教師を命じられた。このときディアーヌは20歳年上の32歳。 ディアーヌは美しい女性として知られ、50代になってもその容貌が衰えることがなかった。行き来はそんなになかったらしいが、アンリ2世の愛人とされ、かつ後見人のような立場にあった。 アンリ2世は14歳で同じ歳のメディチ家のカトリーヌ・ド・メディシスと結婚して子供も10人さずかった。カトリーヌとディアーヌとは従姉妹同士で、デイアーヌは王の子供達の教育係も務めていた。 アンリ2世は1547年に国王フランソワ1世の死去に伴い28歳で国王に就任する。ディアーヌは、政治的洞察力に優れており、行政能力もあったようでアンリ2世は多くの公式書類決済をディアーヌに任せたという。
1559年、娘の婚約祝宴の一環で行われた馬上槍試合において、アンリ2世は偶発的に重症を負い、40歳で亡くなってしまった。 王妃カトリーヌはディアーヌを葬儀に呼ばず、後ろ盾のなくなったディアーヌからシュノンソー城をとりあげ、代わりに自分が所有していたショーモン城を与えた。積年の恨みをはらしたと言われているが、ショーモン城の方が領地の収入が多かったらしいので、シュノンソー城への愛着が強かったからのではないかとも思われる。前から欲しがっていたそうで、事実、この城で摂政として国務の執務を行った。また、1577年には橋の上に舞踏会場を増設し、城は今の形となった。橋の部分は2階建てで、下階はホールとなり、ここから上下流の川が見渡せる。上階は美術館になっている。 ショーモン城はロワール川を望む高台に建ち、眺めが良く、毎年国際庭園祭が開かれる。古城巡りのリストにも入り、シュノンソー城から約15kmのところにある。ただディアーヌはショーモン城には僅かしかいなくて、かってアンリ2世に建ててもらった故郷のアネの城で静かに生涯を閉じた。 シュノンソー城を挟んで庭園が二つあり、東側はディアーヌの庭園、西側はカトリーヌの庭園と名前がついている。 |