小樽運河-2 小樽運河 2004.1
明治の頃小樽は札幌をはじめ道内への物資の陸揚げ港となり、1880(明治13)年には空知地方の豊富に埋蔵する石炭の搬出を目的として、日本で3番目、北海道で最初の鉄道が小樽(手宮)と札幌間に開通されました。やがて小樽港は特別輸出港や国際貿易港に指定され、1920年代前半までに南・北防波堤や小樽運河も完成され、石炭、雑穀、日用雑貨等の輸出入や移出入が盛んに行われました。
このように、明治から大正・昭和の初期にかけて北海道経済の中心として繁栄し、この時期に洋風又は和洋折衷の意匠を取り入れた商家、銀行、取引所などの建設が相次ぎました。また、明治・大正時代に失火による大災害が続出したことから、港や運河周辺に石造(木骨石造が多い)の倉庫や商家が多く建てられています。
明治三十年頃には、物資の流通量が急増してきたため、積み降ろしの施設として埠頭方式、運河方式の二つが検討されたが、意見がまとまらず大論議になってしまったそうです。
十年あまりももめにもめ、やっと道庁が結論を出したのが、埠頭方式でした。しかし、着工しようとしても、資金が調達できず一年経ぎてしまいました。明治四十二年七月、小樽港北防波堤を完成させた広井勇が、埠頭方式より、はしけを使った運河方式の方が、小樽の積み荷や、倉庫等の位置関係からして、良いと結論したため、運河に決定し、構想より十六年、やっと大正三年八月に着工となりました。